テツモ女子 佐橋奈葉の今日も模型鉄!

初めまして、鉄道模型が大好きなちょっと不器用なモデラーです。 よろしくお願いします❗️

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第77話 彼女の気配が消えたあと

◆厨房の思い出話

 

洋菓子店「ポプラ」の厨房には、夕方の仕込みを終えたあとも、バターと砂糖が混ざった甘い香りがほのかに残っていた。

 

火を落としたばかりの大型オーブンは、秋の気配が忍び寄る空気を、余熱でじんわりと温めている。

 

ステンレスの作業台を囲み、思い出話に花を咲かせる奈葉と店主の岳志。

その様子を、亮太はどこか所在なさげに眺めていた。


奈葉がバイトしていたころ、ナポレオンパイ作りで盛大に失敗した話。

岳志が若いころ、無茶な修業時代を過ごしたという武勇伝。

二人の間に流れる空気は濃密で、亮太が入り込む隙はほとんどなかった。

 

◆魅惑の提案

 

そんなとき、岳志がふと壁の古びた時計に目をやる。

その瞬間、厨房の空気がふっと切り替わった。

 

「……もうすぐ5時か」

 

腕を組み直し、思いついたように声を弾ませる。

 

「せっかくだ。店を閉めたら、みんなで札内ガーデン(※)のモール温泉でもどうだ? 

そのあと、十勝名物の豚丼でも食べてさ」

 

その提案に、亮太の心臓が跳ねた。


温泉! しかも湯上がりの奈葉さんと一緒……! 

そのうえ地元飯まで? 

完璧すぎるフルコースじゃん!


鼻の下が伸びるのを必死に抑え、「ぜひ!」と身を乗り出しかけた、そのときだった。

 

奈葉は一瞬だけまつ毛を伏せ、申し訳なさそうに岳志へ向き直る。

 

「おじさん、ごめんなさい。

今日は実家で夕食の支度をしたくて……。

たまにしか帰って来れないから、少しでも母を手伝いたいんです」

 

その声はやわらかいが、芯のある響きだった。
 

岳志は、複雑そうな表情を浮かべたが、すぐに苦笑してうなずいた。

 

「そうか、そりゃあ仕方ないな。

若いのがいると賑やかでいいんだが……まあ、母さん孝行が一番だ」


少し寂しそうに言いながらも、どこか納得した顔だった。

 

◆亮太、現実を知る

 

そのやり取りを耳にした亮太の頭の中は、完全にパニックに陥っていた。

え、ちょっと待って。奈葉さん、実家に泊まるの? 

……じゃあ、俺はどこに泊ればいいんだ……?

 

今さらながら重大な事実に気づき、厨房の床が急に冷たく感じられた。

考えてみれば、ごく当たり前のことだ。

帰省してきた人間が、わざわざホテルに泊まるはずがない。
 

まさか……奈葉さんの実家に「お邪魔します」って展開なのか?

 

しかし、奈葉の涼しい顔を見る限り、その可能性は万に一つもなさそうだった。

彼女からすれば、亮太は自分で宿を手配している前提なのだろう。

だが、亮太には準備などできるはずもなかった。

 

普通、そこは先に言うんじゃないの?

 

心の中でツッコミを入れるが、本人はすでに実家のことでも考えているようで、まったく気にしていない。

 

シルバーウィークの夕方だぞ……? 空き部屋なんてあるわけ……

 

嫌な想像が、頭の中で現実味を帯びていく。

 

これ、野宿コースじゃないか? ヒグマに会ったらどうすんだ、俺

 

脳裏に、静岡の父の得意げな顔が浮かんだ。

 

いいか亮太、食事に誘って酒でも飲めば自然と距離は縮まる。最後に手でも繋げば、それで……

 

……親父、条件がハードモードすぎるんだよ。

手を繋ぐどころか、このままだと住所不定観光客になりそうなんだよ!

 

思わず心の中で親父に八つ当たりしていると、岳志の低く落ち着いた声が亮太を現実へ引き戻した。

 

◆救いの手

 

「亮太くん。……今夜の宿は、もう決めてあるのかい?」

 

痛いところを突かれ、亮太は消え入りそうな声で答えた。

 

「い、いや……まだ、具体的には……」

 

ぶっきらぼうに答えたが、それは動揺のせいだった。

 

岳志はふっと息を吐き、さらりと言った。

 

「それなら、うちに泊まっていけばいい」

 

「えっ?」

 

思わず間の抜けた声が漏れる。

 

岳志は淡々と、しかしどこか寂しげな口調で続けた。

 

「……うちは息子が二人いたんだが、今は夫婦だけでね。二階は空き部屋ばかりなんだよ」

 

さらりとした言い方なのに、「息子」という言葉だけが妙に重たく響いた。

 

「は、はあ……」

 

曖昧に返す亮太の横で、奈葉があっけらかんと言う。

 

「亮太くん、良かったじゃない。

おじさんの家、ケーキだけじゃなく、ご飯も美味しいんだから」

 

……はい、良かったですね、俺

 

心の中で乾いた拍手を送る。

 

温泉イベント消滅。夜のしっとりタイムもゼロで終了

 

「……あ、ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
 

その声には、助かった安堵と、どうしても拭いきれない落胆が混じっていた。

 

◆それぞれの夜へ

 

「よし、決まりだ。最近は帯広のホテルも高騰しているからな。

十勝の一般家庭を味わうのも、いい土産話になるさ」
 

岳志の言葉には、先ほどまでの“重さ”を打ち消すような温かさが戻っていた。

 

奈葉は、そんな複雑な空気など気づきもしない様子で、軽い調子で続ける。

 

「じゃあ亮太くん、明日もよろしくね。

10時前には迎えに来るから」

 

「わ、わかりました」

 

亮太が期待していた展開は見事に消え、そう答えるのが精一杯だった。

 

奈葉はくるっと岳志の方へ向き直り、ぺこりと頭を下げる。

 

「おじさん、亮太くんをよろしくお願いします」

 

「おう、母さんによろしく伝えてな」

 

短いやり取りを終えると、奈葉は軽やかな足取りで厨房を出て行った。

裏口のドアが閉まる音が、やけにあっさりと響く。

 

そこにはバターの香りだけが取り、彼女の甘やかな気配は跡形もなく消えていた。

 

◆気まずい居間

 

奈葉が帰ったあと、厨房には亮太と岳志の二人だけが残った。

 

換気扇の低い唸りと、遠くを過ぎ去る車の音だけが、夜の静けさを際立たせている。

 

岳志が、パンと軽く手を叩いて沈黙を破った。

 

「さぁてと。いつまでも厨房にいるのもなんだし、奥でゆっくりしようか」

 

そう言って、厨房の奥にある古びた引き戸を開ける。

その向こうには、店の華やかさとは対照的な、生活の気配が漂っていた。

 

亮太は「お邪魔します」と小さくつぶやき、岳志の背中を追う。

 

通された居間は、使い込まれた木のテーブルに座布団が並ぶ、こじんまりとした空間だった。

壁に飾られた十勝の風景写真は、蛍光灯の光に照らされ、四隅がセピア色に沈んでいる。

 

「テレビでも見ながら、ゆっくりくつろいでいいよ」

 

岳志はリモコンをテーブルの端に置くと、亮太の返事を待たずに厨房へ戻っていった。

 

一人残された亮太は、所在なさげに座布団へ腰を下ろす。 

手持ち無沙汰にスマホを取り出してみるが、期待していた奈葉からの通知はなかった。

 

……どうすんだよ、この状況

 

さっきまで隣にいた奈葉が、急に遠くへ行ってしまったような気がした。

 

◆まかないの温もり

 

そんな心のもやもやを振り払うように、厨房から太い声が響いた。

 

「おーい、亮太くん」

 

「あ、はい!」

 

弾かれたように背筋を伸ばすと、引き戸が開き、岳志が顔をのぞかせた。

 

「ちょうど腹が減る時間だろ」

 

目尻を少し下げ、やわらかく笑う。

 

「大したもんじゃないけどさ。うちのまかないで良ければ、食べないか?」

 

「あ……ありがとうございます。すみません、お気遣いいただいて」

 

「若いんだからさ、遠慮しなくていいんだよ」

 

その言葉には押しつけがましさはなく、むしろ“気楽にしてね”という温かさが込められていた。

 

岳志が厨房へ戻ると、ほどなくして心地よい音が聞こえ始める。

 

ボウルの中で卵が跳ねる軽快なリズム。 

フライパンに火がかけられ、バターが溶ける「じゅわっ」という音。

そして、甘い香りが引き戸の隙間からふわりと流れ込んでくる。

 

……いい匂い

 

鼻をくすぐるその香りに、胸の奥に残っていた落胆が少しずつ溶けていく。

 

やがて皿が触れ合う音がして、岳志が盆を運んで来た。

 

「お待たせ。冷めないうちに召し上がれ」

 

テーブルに置かれたのは、ふっくらとした曲線を描くオムライスと、湯気を立てる具だくさんのスープ。

派手さこそないが、どこか“家の温もり”がそのまま形になったような料理だった。

 

「いただきます」

 

亮太は軽く一礼し、スプーンで黄金色の卵をそっと割った。

中から立ちのぼるバターの香りがふわりと広がり、思わず胸がほどける。

 

一口運ぶと、やさしい甘みが舌に広がった。

 

「……お、おいしいです」

 

感嘆する声に、岳志は「よかった」とだけ返し、熱い湯のみを両手で包み込む。

 

温かさが喉を通るたび、胸の奥にあったざらつきが静かにほどけていく。

 

――こんな夜も、悪くない。

 

そう思った瞬間、心のどこかに小さな灯りがともった。

 

[つづく]

 

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