
◆厨房の思い出話
洋菓子店「ポプラ」の厨房には、夕方の仕込みを終えたあとも、バターと砂糖が混ざった甘い香りがほのかに残っていた。
火を落としたばかりの大型オーブンは、秋の気配が忍び寄る空気を、余熱でじんわりと温めている。
ステンレスの作業台を囲み、思い出話に花を咲かせる奈葉と店主の岳志。
その様子を、亮太はどこか所在なさげに眺めていた。
奈葉がバイトしていたころ、ナポレオンパイ作りで盛大に失敗した話。
岳志が若いころ、無茶な修業時代を過ごしたという武勇伝。
二人の間に流れる空気は濃密で、亮太が入り込む隙はほとんどなかった。
◆魅惑の提案
そんなとき、岳志がふと壁の古びた時計に目をやる。
その瞬間、厨房の空気がふっと切り替わった。
「……もうすぐ5時か」
腕を組み直し、思いついたように声を弾ませる。
「せっかくだ。店を閉めたら、みんなで札内ガーデン(※)のモール温泉でもどうだ?
そのあと、十勝名物の豚丼でも食べてさ」
その提案に、亮太の心臓が跳ねた。
(温泉! しかも湯上がりの奈葉さんと一緒……!
そのうえ地元飯まで?
完璧すぎるフルコースじゃん!)
鼻の下が伸びるのを必死に抑え、「ぜひ!」と身を乗り出しかけた、そのときだった。
奈葉は一瞬だけまつ毛を伏せ、申し訳なさそうに岳志へ向き直る。
「おじさん、ごめんなさい。
今日は実家で夕食の支度をしたくて……。
たまにしか帰って来れないから、少しでも母を手伝いたいんです」
その声はやわらかいが、芯のある響きだった。
岳志は、複雑そうな表情を浮かべたが、すぐに苦笑してうなずいた。
「そうか、そりゃあ仕方ないな。
若いのがいると賑やかでいいんだが……まあ、母さん孝行が一番だ」
少し寂しそうに言いながらも、どこか納得した顔だった。
◆亮太、現実を知る
そのやり取りを耳にした亮太の頭の中は、完全にパニックに陥っていた。
(え、ちょっと待って。奈葉さん、実家に泊まるの?
……じゃあ、俺はどこに泊ればいいんだ……?)
今さらながら重大な事実に気づき、厨房の床が急に冷たく感じられた。
考えてみれば、ごく当たり前のことだ。
帰省してきた人間が、わざわざホテルに泊まるはずがない。
(まさか……奈葉さんの実家に「お邪魔します」って展開なのか?)
しかし、奈葉の涼しい顔を見る限り、その可能性は万に一つもなさそうだった。
彼女からすれば、亮太は自分で宿を手配している前提なのだろう。
だが、亮太には準備などできるはずもなかった。
(普通、そこは先に言うんじゃないの?)
心の中でツッコミを入れるが、本人はすでに実家のことでも考えているようで、まったく気にしていない。
(シルバーウィークの夕方だぞ……? 空き部屋なんてあるわけ……)
嫌な想像が、頭の中で現実味を帯びていく。
(これ、野宿コースじゃないか? ヒグマに会ったらどうすんだ、俺)
脳裏に、静岡の父の得意げな顔が浮かんだ。
《いいか亮太、食事に誘って酒でも飲めば自然と距離は縮まる。最後に手でも繋げば、それで……》
(……親父、条件がハードモードすぎるんだよ。
手を繋ぐどころか、このままだと住所不定観光客になりそうなんだよ!)
思わず心の中で親父に八つ当たりしていると、岳志の低く落ち着いた声が亮太を現実へ引き戻した。
◆救いの手
「亮太くん。……今夜の宿は、もう決めてあるのかい?」
痛いところを突かれ、亮太は消え入りそうな声で答えた。
「い、いや……まだ、具体的には……」
ぶっきらぼうに答えたが、それは動揺のせいだった。
岳志はふっと息を吐き、さらりと言った。
「それなら、うちに泊まっていけばいい」
「えっ?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
岳志は淡々と、しかしどこか寂しげな口調で続けた。
「……うちは息子が二人いたんだが、今は夫婦だけでね。二階は空き部屋ばかりなんだよ」
さらりとした言い方なのに、「息子」という言葉だけが妙に重たく響いた。
「は、はあ……」
曖昧に返す亮太の横で、奈葉があっけらかんと言う。
「亮太くん、良かったじゃない。
おじさんの家、ケーキだけじゃなく、ご飯も美味しいんだから」
(……はい、良かったですね、俺)
心の中で乾いた拍手を送る。
(温泉イベント消滅。夜のしっとりタイムもゼロで終了)
「……あ、ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
その声には、助かった安堵と、どうしても拭いきれない落胆が混じっていた。
◆それぞれの夜へ
「よし、決まりだ。最近は帯広のホテルも高騰しているからな。
十勝の一般家庭を味わうのも、いい土産話になるさ」
岳志の言葉には、先ほどまでの“重さ”を打ち消すような温かさが戻っていた。
奈葉は、そんな複雑な空気など気づきもしない様子で、軽い調子で続ける。
「じゃあ亮太くん、明日もよろしくね。
10時前には迎えに来るから」
「わ、わかりました」
亮太が期待していた展開は見事に消え、そう答えるのが精一杯だった。
奈葉はくるっと岳志の方へ向き直り、ぺこりと頭を下げる。
「おじさん、亮太くんをよろしくお願いします」
「おう、母さんによろしく伝えてな」
短いやり取りを終えると、奈葉は軽やかな足取りで厨房を出て行った。
裏口のドアが閉まる音が、やけにあっさりと響く。
そこにはバターの香りだけが取り、彼女の甘やかな気配は跡形もなく消えていた。
◆気まずい居間
奈葉が帰ったあと、厨房には亮太と岳志の二人だけが残った。
換気扇の低い唸りと、遠くを過ぎ去る車の音だけが、夜の静けさを際立たせている。
岳志が、パンと軽く手を叩いて沈黙を破った。
「さぁてと。いつまでも厨房にいるのもなんだし、奥でゆっくりしようか」
そう言って、厨房の奥にある古びた引き戸を開ける。
その向こうには、店の華やかさとは対照的な、生活の気配が漂っていた。
亮太は「お邪魔します」と小さくつぶやき、岳志の背中を追う。
通された居間は、使い込まれた木のテーブルに座布団が並ぶ、こじんまりとした空間だった。
壁に飾られた十勝の風景写真は、蛍光灯の光に照らされ、四隅がセピア色に沈んでいる。
「テレビでも見ながら、ゆっくりくつろいでいいよ」
岳志はリモコンをテーブルの端に置くと、亮太の返事を待たずに厨房へ戻っていった。
一人残された亮太は、所在なさげに座布団へ腰を下ろす。
手持ち無沙汰にスマホを取り出してみるが、期待していた奈葉からの通知はなかった。
(……どうすんだよ、この状況)
さっきまで隣にいた奈葉が、急に遠くへ行ってしまったような気がした。
◆まかないの温もり
そんな心のもやもやを振り払うように、厨房から太い声が響いた。
「おーい、亮太くん」
「あ、はい!」
弾かれたように背筋を伸ばすと、引き戸が開き、岳志が顔をのぞかせた。
「ちょうど腹が減る時間だろ」
目尻を少し下げ、やわらかく笑う。
「大したもんじゃないけどさ。うちのまかないで良ければ、食べないか?」
「あ……ありがとうございます。すみません、お気遣いいただいて」
「若いんだからさ、遠慮しなくていいんだよ」
その言葉には押しつけがましさはなく、むしろ“気楽にしてね”という温かさが込められていた。
岳志が厨房へ戻ると、ほどなくして心地よい音が聞こえ始める。
ボウルの中で卵が跳ねる軽快なリズム。
フライパンに火がかけられ、バターが溶ける「じゅわっ」という音。
そして、甘い香りが引き戸の隙間からふわりと流れ込んでくる。
(……いい匂い)
鼻をくすぐるその香りに、胸の奥に残っていた落胆が少しずつ溶けていく。
やがて皿が触れ合う音がして、岳志が盆を運んで来た。
「お待たせ。冷めないうちに召し上がれ」
テーブルに置かれたのは、ふっくらとした曲線を描くオムライスと、湯気を立てる具だくさんのスープ。
派手さこそないが、どこか“家の温もり”がそのまま形になったような料理だった。
「いただきます」
亮太は軽く一礼し、スプーンで黄金色の卵をそっと割った。
中から立ちのぼるバターの香りがふわりと広がり、思わず胸がほどける。
一口運ぶと、やさしい甘みが舌に広がった。
「……お、おいしいです」
感嘆する声に、岳志は「よかった」とだけ返し、熱い湯のみを両手で包み込む。
温かさが喉を通るたび、胸の奥にあったざらつきが静かにほどけていく。
――こんな夜も、悪くない。
そう思った瞬間、心のどこかに小さな灯りがともった。
[つづく]