
ふと、奈葉が腕時計に目を落とす。
「……1時を過ぎたし、ちょうどいいかな」
独り言のようなつぶやきに、亮太は顔を向けた。
「亮太くん、お腹すいてるでしょ?」
言われるまでもなかった。
朝5時に食べた菓子パンと、六花亭のスイーツだけでここまで来ている。
正直、頭の片隅はずっと昼食のことでいっぱいだった。
けれど、自分から言い出すのは、何となく気が引ける。
「近くに美味しいカレー屋さんがあるんだけどね、1時前はすごく混むの。
だから少し時間をつぶしてたの」
奈葉はそう言いながら、紙袋を軽く持ち上げて見せた。
その中身を思い出したのか、ふっと笑みがこぼれる。
しばらく歩くと、見覚えのある六花亭の建物が視界に入った。
横断歩道を渡った少し先に、その店はある。
小さなお城のような外観に、赤い「インデアン」の文字。
ターバンを巻いた人物の看板が、妙に食欲をそそった。
奈葉は楽しげな笑みを浮かべながら、自動ドアをくぐる。
店内に入った瞬間、スパイスの香りがふわりと広がる。
奈葉が言った通り、昼のピークは過ぎていて、店内にはいくつか空席があった。
二人は窓際のテーブルに腰を下ろし、メニューを見つめる。
カレールーは3種類。
そこにカツ、ハンバーグ、チキンなどを自由に組み合わせられる。
選び始めると、思った以上に悩ましい。
奈葉がやさしく言葉をかけてくれる。
(いや、“せっかく”なら――)
亮太の中では、すでに答えが出ていた。
カツカレー、大盛り。
だがそのイメージと同時に、もうひとつの現実が浮かぶ。
――目の前には奈葉がいる。
脳内で何度か葛藤した末、亮太は無難な落としどころを選んだ。
「俺、インデアンルーにチキンで……辛さは普通で」
口に出した瞬間、どこか物足りなさが胸に残る。
それでも、「これでいい」と自分に言い聞かせた。

◆奈葉の意外な注文
「了解、すみませ~ん」
奈葉の明るい声が店内に響く。
「インデアンルーにチキンと、ベーシックルーにハンバーグ。
辛さはどちらも普通でお願いします」
さらっと告げられた注文に、亮太は思わず顔を上げた。
(ハンバーグだと……?)
てっきり軽めのものを選ぶだろうと思っていた予想は、見事に外れた。
(何だよ……それなら俺だって……!)
一瞬、カツカレー大盛りの幻が再び頭をよぎる。
しかし、もう注文は終わっていた。
亮太は何も言えず、ただ水を一口飲む。

◆大人びた仕草
しばらくして運ばれて来たカレーは、香りだけで食欲をかき立てた。
グラスの縁には、淡く色づいたルージュがわずかに残っていた。
それに気づいた奈葉は、さりげなく紙ナプキンを手に取り、静かにグラスを拭う。
その落ち着いた仕草が妙に大人っぽく見えて、亮太は視線の置き場に困ってしまった。
気がつくと、頭の中にあったカツカレーのことなどすっかり消えていた。
奈葉は特に気にする様子もなく、何事もなかったようにスプーンを手にする。
その前で、亮太は少し姿勢を正す。
(落ち着け。落ち着いて食べろ……)
心の中で自分に言い聞かせながら、ゆっくりと一口。
本当は、もっと勢いよく食べたい。
けれど、それはぐっとこらえる。
好きな人の前での食事とは、こういうものなのかも知れない――
そんなことを考えながら、亮太は妙にぎこちないペースでカレーを口に運んだ。

◆味変と、胸に残る小さな後悔
どこか懐かしくて、舌の奥にしっかりと残る深いコクがある。
(これ、毎日食べられるの……本当にうらやましいな)
スプーンを運ぶたび、そんな感想が自然と浮かぶ。
そんな様子を見ていたのか、奈葉が少し悪戯っぽく声をかけた。
「亮太くん、この『ホットオイル』を少しだけかけると味変できるのよ」
言われるままに、卓上の小瓶を手に取る。
(少しだけ……ほんの少しだけ、だよな)
慎重に数滴たらして、もう一口。
口に入れた瞬間は変わらない。
けれど、飲み込んだあと、じんわりと辛さが追いかけてくる。
「……あ、ほんとだ」
思わず声が漏れる。
(これ、最初からカツカレーの大盛りで頼んでたら……、今めちゃくちゃ幸せだったやつじゃん)
そんな後悔が胸をかすめるが、もちろん言葉にはしない。
ごはんは普通盛りでも十分な量があり、見た目以上に食べ応えがある。
気づけば、さっきまで抑えていたはずのペースも、じわじわと元に戻っていた。
奈葉は亮太の表情を見て、満足そうに微笑んだ。
「じゃあ、次の場所へ行きましょう」
軽やかに椅子を引き、立ち上がる動作もどこか楽しげだ。
亮太は、次は景色のいい公園か、街のどこかを散策するのだろうと思っていた。
だが、奈葉が口にしたのは、少し意外な言葉だった。
「このあと帯広駅から14時21分発の列車に乗って、隣の札内駅まで付き合ってくれる?」
思いがけない行き先に、亮太の思考が一瞬止まる。
(札内……? 観光地じゃなかった感じがするけど)
考えるより先に、答えは決まっていた。
「……はい、もちろん行きます」
亮太にとって、迷いようのない返事だった。
(まあ……そうなるよな。今回の旅、完全に奈葉さんのペースだし)
心の中で小さく苦笑する。
どうやらこの二日間は、「一緒に計画する旅」ではなく、奈葉が描いたルートを辿っていく時間らしい。
(でも……それも悪くないよな)
行き先がどこであっても、隣に奈葉がいるのなら、それだけで十分だと思えた。

◆そして札内駅へ
駅前通りを少し進むと、午前中に待ち合わせをした噴水のモニュメントが見えて来た。
さきほど歩いた景色のはずなのに、どこをどう通ったのか、ほとんど記憶に残っていない。
それは、奈葉の話し方や仕草に気を取られていたせいもあるだろう。
「いつの間にか戻ってきちゃいましたね」
「うん。だいたい、みんな駅から500メートル圏内にまとまってるから」
奈葉が軽く言い切るあたりに、二人の“時間の感覚”の違いがにじんでいた。
そのまま帯広駅の構内に入る。
昼下がりのせいか、乗客の姿はまばらで、どこかひっそりとしている。
無理もない。
札内方面行きの普通列車は、およそ2時間に1本しか走っていない。
十勝もすっかりクルマ社会になり、鉄道で移動する人は減っているのだろう。
エスカレーターで高架ホームへ上がると、1両だけのディーゼルカーが停まっていた。
奈葉は迷いなく、慣れた手つきでボタンを押してドアを開ける。
(あ、こういうタイプか)
都会の感覚が抜けないまま、亮太はワンテンポ遅れて乗り込んだ。
発車時刻になると、ディーゼルカーは唸りを上げながら帯広駅を離れて行く。
窓の外では、駅前の景色があっという間に後ろへ流れて行った。
車内はがらんとしていて、この乗車率なら2時間おきでも十分なのかも知れない。
高架を下り、北海道らしい急勾配の屋根を持つ民家のあいだを抜けると、列車は札内駅へ滑り込んだ。
[つづく]