
◆眠れないまま迎えた朝
シルバーウィーク初日の早朝4時半。
スマホのアラームが鳴り、亮太は浅い眠りからゆっくりと意識を引き上げられた。
前夜は、宿泊先のことを考え始めてしまい、なかなか寝つけなかった。
奈葉から伝えられているのは「1泊2日」という予定だけ。
どこに泊まるのか――彼女が手配しているのか、それとも自分で用意すべきなのか。
結局、その答えを聞けないまま朝を迎えてしまった。
◆宿泊先の不安
試しに検索してみると、シルバーウィークの帯広は予想以上だった。
ホテルはどこも料金が跳ね上がり、空室を探すことさえ難しい。
そもそも予約画面で「人数」を入力する段階で迷ってしまう。
シングルなのか、ツインなのか――その選択すら決められない。
ツインをシングルユースで押さえる方法もある。
だが、もし当日になって不要になれば、キャンセル料金はほぼ全額になるだろう。
考えて見れば、これが“二人で過ごす北海道旅行”になるとは限らない。
「私は実家に帰るから、亮太くんは好きにして」
そんなふうに言われる可能性だって、十分にある。
それが分かるのは、おそらく当日の夕方だ。
その時点で宿が取れるのか――考え始めると不安だけが膨らんでいく。
そして何一つ答えを出せないまま、思考だけがぐるぐると巡り続け、気付けば朝を迎えていた。
◆服装の小さな悩み
もう一つ、亮太を悩ませていたのは服装だった。
東京はまだ残暑が続いている。
けれど帯広は、きっと爽やかな初秋の空気に包まれているはずだ。
その温度差を思うだけで、何を着て行けばいいのか分からなくなる。
奈葉にどんな格好がいいのか尋ねることも考えた。
だが、彼女の心はどこかガラス細工のように繊細で、その距離に踏み込む勇気が持てない。
そんな些細なことでさえ、簡単には聞けなかった。
結局、頼れるのは天気予報だけだった。
画面に表示された気温を何度も確かめながら、いつもより慎重に服を選ぶ。
迷った末、薄手のネイビーのシャツに、生成りのチノパンを合わせることにした。
スニーカーは、新しく用意したと思われないよう、あえて履き慣れたものを選ぶ。
旅行者らしく見えすぎないように――
ほんの少しだけ、普段より整えたつもりだった。
奈葉にどう見えるだろう。
そんな思いを胸の奥にそっと隠しながら、亮太は静かに荷物をまとめていった。

◆羽田へ向かう道のり
奈葉との待ち合わせは、11時に帯広駅北口の噴水前。
それに間に合わせるためには、亮太は5時半過ぎには家を出る必要があった。
まだ薄暗い街を抜け、亮太は「緑が丘駅」から電車を乗り継ぎ、羽田空港へ向かった。
飛行機に乗る機会などほとんどない。
JALが第1ターミナルなのか第2なのか――
北ウイングと南ウイングの違いは何なのか――
そのたびにスマホで確かめながら進む。
気づけば、手荷物検査場を通過したのは搭乗開始の20分前だった。
◆曖昧な旅の始まり
機内は、シルバーウィーク初日らしく満席だった。
家族連れやグループ客の笑い声が混じるなか、亮太はまるで「傷心を抱えたひとり旅」のように座席へ身を沈めた。
本来なら――
想いを寄せる相手との旅行の始まりになっていてもおかしくない。
けれど今回の約束は、「現地集合、現地解散」という、どこか輪郭の曖昧な旅だった。
亮太は考え方を少し変えてみようとした。
これは旅行ではない。
故郷で暮らす彼女に、会いに行くだけなのだ、と。
奈葉が十勝に住んでいるのなら、東京にいる自分が一人で会いに行くことも、不自然ではないはずだ。
そうやって胸の奥に生まれる小さな矛盾を、どうにか納得させようとしていた。

◆広がる十勝の大地
飛行機は、1時間半ほどで帯広空港に着いた。
ボーディングブリッジを渡ると、秋の訪れを告げるような爽やかな風が頬を撫でた。
これが奈葉が吸っていた空気なのかと思うと、胸の奥がなぜか温かくなり、 少しだけ彼女に近づいたような気がした。
空港連絡バスに乗り、帯広駅へ向かう。
車窓には、東京では見られない広大な十勝の大地が広がっていた。
黒く続く馬鈴薯畑と整然とした畝、その奥にまっすぐ伸びるポプラ並木。
その景気を眺めているだけで、奈葉が過ごして来た日常が自然と浮かんで来る。
気づけば亮太の心は、十勝に降り立った瞬間から、どこか詩人めいていた。

◆待ち合わせの場所へ
帯広駅のバスターミナルに着いたのは、10時半前。
待ち合わせ時間は11時だから、まだ十分に余裕がある。
ただ、どちらが指定された北口なのか分からない。
あてもなく駅の方へ歩くと、すぐにエゾシカのモチーフに囲まれた噴水が目に入った。
なるほど、ここなら待ち合わせにぴったりだ。
初めて訪れた帯広という街で、想いを寄せる人と待ち合わせをする――
まるでドラマの主人公になったみたいで、胸が高鳴った。
そして、先ほどまで感じていた「疎外感」は、いつの間にか消えていた。
◆十勝の空と奈葉の輪郭
夏の名残を感じる陽射しのなか、ベンチに腰を下ろし、背筋をそっと伸ばした。
シャツの袖を軽くまくり、ふと空を見上げる。
青が深く、遠くまで抜けていて、胸の奥まで澄んでいくようだった。
(奈葉さんは、この空を見て育ったのか)
彼女が時折見せる、あの遠くを見るような目。
理由の分からない沈黙と、言葉にならない距離感。
その答えが、この空のどこかに溶け込んでいるのだろうか。
普段、鉄道模型の話をしているときの奈葉とは違う、 もうひとつの輪郭が、少しずつ浮かび上がって来るようだった。
彼女を少し理解できた気がすると同時に、 自分はまだ何も知らないのだとも思う。
◆遅れて来る人
亮太は立ち上がり、駅舎を背に広場を見渡した。
家族連れが写真を撮り、観光客らしい人たちが地図を広げている。
シルバーウィークだからか、どこか穏やかな時間が流れていて、 自分だけが少し違う理由でここにいるような気がした。
そして、何度目か分からないほど時計を見た。
――11時05分。
少し遅れているけれど、不思議と不安はない。
奈葉はときどき理由もなく遅れることがあり、 そこが彼女らしいところでもあった。
そのとき――
駅前広場で人の流れがふっと途切れた瞬間、見覚えのある歩き方が視界に入った。
少し遅れていることなど気にも留めず、 急ぐことなく、自分のペースを崩さない歩き方。
――奈葉だ。
胸が、不意に強く高鳴った。
◆故郷の奈葉、いつもの奈葉
淡いアイボリーのブラウスに、風に揺れるロングスカート。
足元は控えめなヒールのパンプス。
東京で見る彼女よりも、どこかやわらかく、その土地の空気に自然に溶け込んでいた。
そして――亮太の視線が、ふと止まった。
今日は、いつものダメージデニムじゃない。
奈葉の一部だと思っていた“あのスタイル”が、十勝では存在していなかった。
(故郷では、違う奈葉なんだ)
そう気づいた瞬間、肩から下がる生成りのトートバッグが目に入った。
角は少し擦れ、持ち手は柔らかく馴染んだ、見慣れたあのバッグ。
定例会で長テーブルの上に無造作に置かれていた光景が浮かぶ。
帰り際、肩に掛け直す仕草まで鮮明に思い出せた。
トートバッグを見た途端、胸の緊張がゆっくりとほどける。
十勝の空の下で、不意に「いつもの奈葉」が戻って来たように見えた。
◆会いに来た理由
奈葉は亮太を見つけると、小さく目を細めた。
まるで帯広駅で会うことが当たり前のように、驚くほど自然な表情だった。
そして数歩手前で立ち止まり、風に揺れた髪を耳にかける。
その仕草を見た瞬間、亮太は思った。
(ああ、自分は今、この人に会いにここまで来たんだ)
少し遅れて詫びる言葉を、いつもの声で彼女は軽く言うのだろう。
それを想像しただけで、胸が少し痛むほど嬉しかった。
[つづく]