
「こんにちは、亮太くん。
バスが遅れちゃって、少し待たせてごめんなさいね。
そして、十勝へようこそ」
その言葉は、まるで観光ガイドが最初にかける一言のようで、亮太は思わず小さく笑った。
「そうだ。せっかくだし、この噴水のモニュメントの中に入ってみない?」
促されるまま、亮太は低い段差を越えて噴水の内側へと足を踏み入れる。
外から見たときには気づかなかったが、内側は思いのほか静かで、水の気配が足元からじんわりと伝わってきた。
派手に噴き上がる水ではない。
淡い光を受けた水が静かに湧き、緩やかな流れとなって広がっていく。
まるで山奥で生まれた水が、小さな川となって下っていくようだった。
奈葉はしゃがみ込み、水の流れに手を浸して遊んでいる。
その姿は、まだあどけなさが残る少女のようだった。

◆エゾシカの像と十勝の空気
「これはね、日高の山々からの湧き水をイメージしているの。
それから――ほら、あそこ」
奈葉が指さした先には、広場に溶け込むようにして一体のエゾシカの像が立っていた。
うつむくように地面へ視線を落とし、今にも歩き出しそうな自然な姿だ。
「日高の森に多く生息するエゾシカを配置してあるのよ」
なるほど、モニュメントの空気が少しだけ深い森へとつながっているように感じられる。
亮太はスマホを取り出し、思い出に十勝らしい景色を写真に収めた。
奈葉は、その様子を満足げに見つめていた。

◆六花亭へ
「朝早く東京を出てきて、疲れたでしょう。
少し休んでいきましょうか」
横断歩道を渡り、通りをしばらく歩くと、木々に囲まれて落ち着いた雰囲気の建物が見えてきた。
余計な装飾はなく、どこか品のある佇まいが、十勝らしい静けさをいっそう引き立てている。
「ここが六花亭の本店よ。
札幌にも本店があって、ちょっとややこしいんだけど、本社は帯広にあるの」
奈葉の言い方には、どこか誇らしさがにじんでいた。
その地元愛が、亮太には少し微笑ましく映る。
亮太にとっては、本店がどこにあるかよりも、この空間そのものの方が印象的だった。
奈葉は嬉しそうに亮太を誘い、店内の奥にある階段を上がっていく。
木の手すりは手になじみ、足音さえ自然と控えめになる。
2階の喫茶室に入ると、1階の賑やかさとは違う穏やかな時間が流れていた。
ベージュの椅子には花柄のクッションが添えられ、やわらかな光がテーブルに落ちている。
まるで女性の部屋のような空間に、亮太は少し気恥ずかしさを覚えた。
奈葉と向かい合って座った瞬間、「現地集合、現地解散の旅」という言葉は、もう頭の片隅から消えていた。
どこにでもあるチェーン店とはまったく違う雰囲気のなかで、奈葉とふたりだけの時間を過ごしている――
それだけで、胸の奥がじんわりと満たされていく。
◆雪こんチーズとホットチョコ
亮太がメニューを広げて迷っていると、奈葉は慣れた様子で店員を呼んだ。
「ええと、『雪こんチーズ』をふたつと、『ホットチョコ』をふたつお願いします」
亮太は軽く食事になるものも頼もうかと考えていたが、その隙は与えられなかった。
けれど、地元の彼女が迷いなく選ぶのだから間違いない――
そう思い直し、素直に任せることにした。
しばらくすると、白い皿と湯気を立てるカップが静かにテーブルへ置かれた。
奈葉は少し身を乗り出し、嬉しそうにそれを見つめる。
「この『雪こんチーズ』はね、賞味時間がとっても短いの。
だから、ここでしか食べられないのよ」
そう言いながらフォークを取り、やわらかく切り分ける。
「それと、このホットチョコ。
上に乗っているの、生クリームなんだけど……少し洋酒が入っていて、香りがいいの。
アーモンドもアクセントになっていてね。
冷めるとチョコが固まっちゃうから、熱いうちに飲むのがおすすめ」
奈葉はホットチョコをひと口飲み、それから雪こんチーズにフォークを入れた。
その様子を見て、亮太も同じように口に運ぶ。
ホットチョコは、想像していたココアとは違っていた。
まるで溶かしたチョコレートそのものを飲んでいるような濃厚さで、体の内側からじんわりと温まっていく。
雪こんチーズは、しっとりとしたビスケットに挟まれたチーズケーキが、舌の上でやわらかくほどける。
コクのある甘さのなかに、ほんのわずかなほろ苦さが混ざり合い、思わず息をついた。
「ここは何でもおすすめだけど、私はこの組み合わせが一番好きなの」
奈葉がそう言って微笑む。
その言葉を聞いた瞬間、亮太にとっても、それはもう疑いようのない“最強”だった。
味そのもの以上に、奈葉と同じものを選び、同じ時間を共有していることが、何よりも特別に感じられる。
気がつけば、1時間近くが過ぎていた。
けれど亮太には、それがどれほどの時間だったのか、うまく思い出せない。
ただ、やわらかな夢の中にいるような感覚だけが、静かに残っていた。

「ここは広小路商店街っていうの。
東京みたいに長くはないけど……だいたい200メートルくらいかな」
頭上を覆う屋根の下は、昼間なのにどこか薄暗く、ところどころシャッターを下ろした店も目につく。
人通りもまばらで、さっきまでの店内の明るさが、少し遠いもののように感じられた。
しばらく歩いたところで、奈葉がふと足を止めた。
視線の先には、小さな雑貨店のショーウィンドウ。
その中を覗き込むようにして、奈葉が小さくつぶやく。
「このすずらんのチャーム、可愛いね」
つられるように、亮太も隣から覗き込む。
小さな白いすずらんが、控えめに光を受けて揺れていた。
「あの、俺これ欲しくなりました」
「えっ、亮太くんが?」
奈葉が意外そうに振り向く。
「いや……俺のじゃなくて。
奈葉さんに、プレゼントしたいなって……」
言ったあと、急に気恥ずかしさがこみ上げ、亮太は視線をそらした。
ほんの一瞬の沈黙が流れる。
アーケードに流れる音楽だけが、静かに耳へ響いていた。
◆すずらんの贈り物
「……気を遣わなくていいのよ」
奈葉の声はやわらかいのに、どこか距離を測るように慎重だった。
亮太は慌てて、少し早口になる。
「北海道に誘ってくれたの、すごく嬉しかったんです。
だから……奈葉さんが気に入ったものなら、って」
言い終えた瞬間、自分の言葉に照れが押し寄せる。
その様子を見て、奈葉はふっと笑った。
「……そっか」
ショーウィンドウに目を戻し、ガラス越しにすずらんを指先でなぞる。
ほんの少しだけ時間が流れた。
「じゃあ――お言葉に甘えようかな」
そう言って振り返った奈葉の表情は、いつもよりわずかにやわらいでいた。
「ありがとう、亮太くん」
その声を聞いたとき、亮太は、自分でも驚くほどほっとしていることに気づいた。
アーケードの薄暗さは変わらないのに、さっきよりも景色が少しだけ明るく見えた。
[つづく]