
◆駆け込む駅
奈葉は、亮太のミニバンが「めぐみ野駅」のロータリーに滑り込むと同時に、短く礼を言ってドアを開けた。
振り返る余裕もないまま、駆け出すように駅構内へと飛び込む。
6月の生ぬるい空気を感じながら、 自動改札にICカードをタッチし、階段を一気に駆け下りる。
ホームに出た瞬間、レールの向こうから電車のヘッドライトが近づいて来るのが見えた。
——ちょうど良かった。
胸の奥で、ほっとした気持ちがゆっくりと広がった。
ドアが開くと同時に乗り込み、空いているロングシートの端に腰を下ろす。
◆千歳経由
電車が動き出すや否や、奈葉はスマートフォンを取り出した。
亮太が教えてくれた「千歳経由」のルート。
震える指で航空会社の予約画面を開き、祈るような気持ちで空席照会をタップする。
数秒の読み込み表示が、ひどく長く感じられた。
——あった。
15時半発の千歳行き、「残りわずか」の表示。
胸を撫でおろした、その次の瞬間。
51,200円。
その数字が、無機質な画面に並んでいた。
(えっ……早割なら2万円もしないのに)
思わず唇がこわばる。
搭乗まで2時間を切った便に空席があること自体、幸運なのだろう。
それでも「緊急」という言葉の重みは、金額にまで跳ね返って来るようだ。
◆帰れる確信
奈葉は小さく息を吸い込み、迷わず「予約」を押した。
続けて、JRの特急も確認する。
千歳空港から南千歳へ移動し、そこから帯広へ向かわないといけない。
接続を調べると、「南千歳18時発・特急おおぞら9号」が表示された。
残席はわずかだが、まだ取れる。
画面に「帯広着20時06分」と表示された瞬間、全身から力が抜けた。
(これで……今日中に帯広へ帰れる)
空港で帯広直行便のキャンセル待ちに賭けるより、ずっと確実だった。
何より、到着時刻がはっきりと示されたことで、奈葉の胸のざわめきは少し静まった。
亮太の顔が、ふと脳裏をよぎる。
(あのとき、「千歳」って言ってくれなかったら……)
心の中で、そっと感謝した。

◆非常口座席
空港に到着した奈葉は、人の流れに押されるように出発ロビーへ向かった。
保安検査場を抜けたときには、搭乗時刻まであと20分しかなかった。
息を整える間もなく搭乗口へ進み、ボーディングブリッジを渡る。
機内に入ると、思っていたよりも静かだった。
指定された座席は非常口列。
足元は広いが、どこか責任の重みを感じさせる位置だ。
シートベルトを締めると、若いアテンダントがそっと歩み寄って来た。
「お客様は、非常口座席にお座りいただいております。
緊急時には脱出の補助をお願いする場合がございますので、ご協力をよろしくお願いいたします」
奈葉は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに小さくうなずいた。
「……はい」
自分が誰かを助ける側に立つ可能性。
その言葉が、胸の奥でわずかに引っかかった。
やがてドアが閉じられ、機体が滑走路へ向けて動き出す。
離陸体勢に入ると、アテンダントが向かいの折りたたみ式シートに腰を下ろす。
視線が合うと、彼女は安心させるように、優しく微笑んだ。
その表情に、奈葉はふと、ショッピングモールで出会った白木彩加(第50話)のことを思い出した。
あのときも、こんなふうな何気ない笑顔に救われた気がした。
エンジンの音が高くなり、機体が加速する。
奈葉はゆっくりと深く息を吸った。
——帰るんだ。
その思いだけを胸に、身体は空へと持ち上げられて行った。

◆空から振り返る10年
離陸して機体が大きく傾くと、都会の街並みが眼下いっぱいに広がる。
まるで奈葉が過ごして来た、都会での10年近い日々を上空から振り返るかのようだった。
同時に、長いあいだ帰郷しなかった自分を悔いる瞬間でもあった。
やがて機体が安定飛行に入ると、低く穏やかなエンジン音が、まるで柔らかな毛布のように客席を包み込む。
シートベルト着用サインが消え、小さな電子音が静かに響いた。
ようやく奈葉は、張り詰めていた息をふっと吐き出した。
窓の外では、雲の切れ間から鈍く光る海がのぞき、やがて白い雲海が一面に広がって行く。
奈葉は無意識に、膝の上に置いた手で円を描くようになぞった。
爪の先が、擦り切れたダメージデニムの縁にかすかに触れる。
──あのころは、帰る理由がなかったわけじゃない。
それでも、帰らなかった。
客室乗務員が、静かにワゴンを押して通り過ぎて行く。
コーヒーの香りが、ほんの一瞬だけ漂った。
その匂いが、都会の朝の記憶を連れて来るようだった。
奈葉はそっと目を閉じた。
都会で積み重ねてきた日々は、決して無意味ではなかった。
けれど、その時間を重ねるほどに、故郷は少しずつ遠ざかって行った。
◆北海道の空気
千歳には、17時すぎに着いた。
機体が滑走路を駆け抜け、逆噴射の振動が足元から伝わる。
窓の外に、まだ薄明るい空と、どこまでも続く地平線が見えた。
機内から出ると、そこには少しひんやりとした北海道の空気が流れていた。
ボーディングブリッジを抜けると、空港特有の明るい照明と広い空間が迎えてくれた。
天井は高く、どこかゆったりした時間が流れている。
足元のカーペットを踏むたび、かすかな弾力が返って来る。
アナウンスの声は、標準語よりほんの少しやわらかく聞こえた。
手荷物受取所の横を通り過ぎ、案内表示に従って「JR線」の矢印へ向かう。
エスカレーターを下ると、空港の賑わいが少し遠のき、音が落ち着いていった。
自動改札の前で、奈葉はふと立ち止まる。
(ここはICカードじゃなく、きっぷを投入するんだ……)
改札を抜けると、地下のホームに広がる空気はさらに冷たかった。
金属とコンクリートの匂い。
その中に、確かに北海道の湿り気が混じっている。

◆故郷へ走る列車
JRに乗って南千歳で特急に乗り換えると、帯広まではあと2時間だ。
車窓には、見慣れた北海道の景色が淡く流れて行く。
すでに日は落ちていたが、都会の光景と比べて心が落ち着くのは、やはりここが故郷だからだろう。
長い新狩勝トンネルを抜け、十勝平野の広がる丘陵を駆け抜けて高架線へと入る。
やがて、帯広のビルやマンションの灯りが目に飛び込んで来た。
すでに夜の闇に包まれていたが、ようやく帰って来たという言う実感が胸に広がった。
改札を抜けると、20時を回ったせいか、駅前のロータリーはひっそりとしていた。
その中で、タクシーの屋根灯が淡く光っている。
奈葉は後部座席に身を沈め、短く告げた。
「帯広厚生病院までお願いします」
走り出した車窓に街の灯りが流れ、信号待ちのたびに、胸の鼓動がわずかに高まる。
◆再会
やがて、白く大きな建物が闇の中に浮かび上がった。
すでに正面玄関は閉まっていて、「時間外エントランス」から入ると、かすかに消毒液の匂いが鼻をかすめた。
照明は控えめで、人々の往来は感じられない。
受付時間を終えた広いロビーはひっそりと静まり、会計付近の照明はほとんど消されている。
その一角で、長椅子に背を丸めて座る人影があった。
シャツの袖を無造作にまくり、肘を膝に乗せて、うつむいている。
スマートフォンの画面が、顔の下半分を青白く照らしていた。
それは、10年ぶりに見る兄の修一だった。
「……兄さん」
声に出した瞬間、喉がかすれる。
修一は顔を上げ、一瞬驚いたような目をする。
「……奈葉か」
短い声で立ち上がると、少しやつれて見えた。
奈葉は、ゆっくりと近寄った。
「母さんは……?」
問いかける声が震える。
「とりあえず、あずましい。今は、寝てるっしょや」
修一の言葉を聞いた瞬間、奈葉の膝から力が抜けそうになった。
それに気づき、さりげなく奈葉の肩に手を添える。
「よく帰って来たな」
その一言に、責める色はなかった。
ただ、待っていた時間の重みだけがあった。
奈葉は小さくうなずく。
病院の静かな夜が、二人を包んでいた。
[つづく]