
◆母の病と、見ないふり
奈葉は幼いころに父を亡くし、母と年の離れた兄の三人で暮らしていた。
大学進学を機に故郷を離れられたのは、兄が母のそばにいてくれる——
そんな確信に近い甘えがあったからだ。
その母は、数年前から労作性狭心病を患っていた。
幸いにも初期段階で見つかり、内服薬で経過を観察していた。
ここしばらくは症状も落ち着き、奈葉も胸を撫でおろしていたところだった。
ただ、実家は音更の商業地から坂を上った場所にある。
医師からは、「徒歩での登り坂には、特に注意するように」と念を押されていた。
——大丈夫、兄がいる。
母も無理はしないと言っていた。
そう自分に言い聞かせながらも、どこかで分かっていた。
それは“安心”ではなく、“目を逸らしていた”だけなのだと。
距離を置けば、現実は少し遠ざかる。
だけど、なくなるわけではない。
◆冷たい文字
奈葉は、意を決したようにLINEをタップする。
画面には、兄からのメッセージが浮かび上がった。
「母さんが胸に激しい痛みを訴えて、救急車を呼んだ。
いま、帯広厚生病院に向かっている。
早く帰って来い」
文字が、やけに冷たく見えた。
(……え、帯広厚生病院?)
十勝でも有数の病院に運ばれたと知り、ひとまずは安堵する。
しかし同時に、そこへ搬送されたという事実が、容体の深刻さを示しているようにも思えた。
何より——
冷静な兄が送って来た「早く帰って来い」という文字。
そして、その前に3回も着信があった事実が、事態の緊急性を物語っていた。
スマホをトートバッグに入れたままにしていた自分。
気づかなかった時間。
その間に、母はどんな思いで救急車に乗ったのだろう。
奈葉は気が気ではなかった。
(帰るのは当たり前。でも……今、どうなってるの?)
◆震える声
会議室からそっと廊下へ出て、兄に電話しようとした。
けれど、動揺のあまりタップすらうまくできない。
何度か指を滑らせて、ようやく呼び出し音が鳴った。
すぐに兄が出た。
「母さん、どしたの!?」
思わず声が上ずる。
「母さんな、ひとりで買い物から帰って来たんだけどさ、顔色が真っ青で……。
そしたら急に胸押さえてさ。痛い痛いって……。すぐ救急車呼んだんだわ」
「だっから言ったべさ、街からの登り坂は発作が出やすいから、兄さんが車で連れてってやれって……!」
「今はそんな話してる場合じゃねぇべや」
その一言で、奈葉は我に返る。
「今どこ!?」
「帯広厚生。さっき初期診療室に入ったばっかりなんだわ。
何回も電話しても出ねぇし……。LINEも既読つかんかったし、本当に焦ったわ。
とにかく、早く帰って来いや」
それだけ言って、電話は切れた。
奈葉は、唇をきゅっと噛みしめた。
自分の都合で、故郷から逃げるように離れたこと。
病を抱える母を、兄ひとりに任せきりにしていたこと。
それなのに——
兄の不注意を責めるような言葉を、反射的にぶつけてしまった。
そんな資格が、自分にあるはずがない。
何より、今日が日曜で、兄が家にいてくれたからこそ、すぐに救急車を呼べたのだ。
もし、あのとき母がひとりだったら——。
坂の途中で倒れていたら。
誰にも気づかれなかったら。
想像しただけで、胸の奥が締めつけられる。
遠く離れた場所にいる自分の無力さが、静かに、けれど確かに、奈葉の心を蝕んでいった。
◆模型のざわめきの中で
奈葉はスマホを握りしめたまま、会議室へと戻った。
足取りは早いのに、どこか地に足がついていない。
扉を開けた瞬間、いつもの模型談義のざわめきが、まるで遠い世界の出来事のように感じられた。
そのまま、奈葉はまっすぐ相原のもとへ駆け寄る。
「すみません……兄から、母が体調を崩したと連絡があって……。
これから帰ることにします」
相原は一瞬だけ目を細め、奈葉の顔色を見つめた。
これはただ事ではないと、すぐに察した。
「……分かった。すぐに帰った方がいい」
奈葉が、廊下に出て電話をする声は、会議室の中にも微かに届いた。
抑えきれない震えが混じる声は、閉じた扉越しでもはっきりと伝わっていた。
相原は、断片的に聞こえる言葉の端々から、事態の深刻さを悟った。
「私の103系電車は……誰かに預かってもらってください」
「ここのことは、何も気にしなくていいよ」
相原の声は落ち着いていて、その口調に迷いはなかった。
「今できることは、一刻も早く帰ることだからね」
「……ありがとうございます」
その声は、かすかに震えていた。
相原は軽くうなずき、いつもの調子を戻すように言った。
「103系は、クラブが責任を持って預かるから、安心して帰りな」
その一言に、奈葉の胸の奥が、ほんの少し緩んだ。
◆間に合わなかった2分
奈葉はコミュニティセンターの正面を抜け、近くにあるバス停へと走った。
胸が痛くなるほど息を切らしながら、バス停の屋根の下に滑り込む。
すぐに掲示された時刻表へ目を走らせた。
だが、駅へ向かう便は——
(……もう、行ったの?)
表示されていた発車時刻は、わずか2分前。
次のバスまで、20分近くもある。
とても、そんな時間を待っていられる心境ではなかった。
いまは1分1秒が惜しい。
立ち止まっている時間が、ひどく無意味なものに思えた。
奈葉は震える指でスマホを取り出し、タクシーの配車センターへ電話をかける。
「すみません、今コミュニティセンターの近くにいるんですけど……駅まで1台、お願いできますか」
祈るような気持ちで返事を待つ。
だが、電話の向こうから返って来たのは、無機質な答えだった。
「申し訳ありません。
ただいま大変混みあっておりまして、早くても30分ほどお時間をいただきます」
30分——。
それは、今の奈葉にとって、あまりにも長すぎる時間だった。
「……そう、ですか」
電話を切った奈葉は、その場に立ち尽くした。
バスはだめ、タクシーも来ない。
頭では理解しているのに、体だけがついて来ない。
どうすればいいのか——
6月の梅雨空が、少しひんやり感じた。
頭の中が真っ白になる。
——そのとき、はっきりとしたクラクションの音が短く響いた。
奈葉は、はっとして顔を上げ、音のした方へ振り返る。
そこには、見覚えのあるミニバンが停まっていた。
助手席の窓が下がり、亮太が身を乗り出すようにして手招きしている。
「奈葉さん、乗って!」
その表情は、いつもの笑顔とは違い、どこか張りつめていた。
奈葉は、一瞬言葉を失った。
◆走り出す車
亮太は、会議室にいたときから、奈葉の様子が普通ではないことに気づいていた。
廊下から響く切迫した声、そして相原との短いやり取り。
——何かあった。
しかも、すぐに動かなければならないことだ。
そう思った瞬間、亮太は考えるより先に、車のキーを掴んでいた。
誰かに断る余裕もなく、会議室を飛び出して、駐車場へと走った。
自分にできることがあるなら、迷っている場合ではなかった。
——今、奈葉が困っている。
それだけで、十分だった。
亮太は、もう一度、強く手招きした。
「乗って。駅まで送るから」
奈葉は迷う暇もなく、車へ駆け寄る。
ドアを開け、助手席に滑り込んだ。
シートベルトを締める手が、わずかに震えている。
「ありがとう……助かった」
それだけ言うと、奈葉はすぐにスマホを握り直した。
隣に亮太がいることも忘れたように、必死で画面を操作する。
やがて電話が繋がった。
「兄さん、あのさ……
帯広に帰る飛行機、日曜の最終便だからか、JALもAIR DOも満席なんだわ……どしたらいいべか?」
切迫した声が、車内に響く。
「そったらこと、十勝から出たこともねぇ俺に聞くなや」
受話口の向こうで、兄の声が荒い息とともに返る。
「しゃーないわ、もう空港行ってキャンセル待ちでもするっしょや」
亮太はハンドルを握りながら、会話の断片を聞いていた。
“満席”
“キャンセル待ち”
その言葉が、奈葉をさらに追い詰めているのが分かる。
信号が青に変わる。
亮太はアクセルを踏み込みながら、素早く考えた。
車は10分ほどで、「めぐみ野駅」のロータリーへ滑り込む。
ブレーキを踏み、エンジンをかけたまま、亮太は言った。
「奈葉さん。帯広が満席なら、千歳に飛んで、JRの特急で帰る方法もあります。
千歳便なら本数も多いですし……そっちの方が可能性あります」
奈葉は、はっとしたように顔を上げた。
「……千歳」
その言葉が、ひとつの光のように響く。
「ありがとう、亮太くん。
今日助けてくれたことは、忘れないから」
そう言って、奈葉は急いでドアを開けた。
亮太は運転席に座ったまま、その背中を見送った。
改札へと足早に去って行く。
けれど、不安を抱えて、今にも崩れてしまいそうだった。
ほんの少し前まで、同じ会議室で模型の話をしていた。
それが、今はもう遠い出来事のように思える。
ハンドルを握る手に、わずかに力が入る。
——無事でいてほしい。
それだけを強く願った。
エンジンの音だけが、静かなロータリーに残っている。
亮太は、しばらくじっとしていたが、やがて小さく息を吐き、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
奈葉のいない助手席が、ひどく広く感じられたまま——
車は、静かに駅を後にした。
[つづく]