
◆退院の朝
音更の実家――
奈葉のスマートフォンが光り、「ピピピ」と一定のリズムでアラーム音を鳴らした。
眠い目をこすって起き上がると、カーテン越しに差し込む朝の光が、ベージュのシーツに柔らかな影を落としていた。
今日は、母が退院する日。
それは分かっているのに、どこか現実味がなく、まるで長い夢の終わりに立っているような、不思議な感覚だった。
退院は午前10時ごろと聞いていたので、奈葉は兄の修一と一緒に、30分ほど前に着くように家を出た。
車は初夏の日差しを浴びながら、静かな十勝の道を走って行く。
車窓の向こうには、果てしなく広がる空と、初夏の緑に染まった畑が続いていた。
のんびり流れる景色を眺めながら、奈葉の胸には、この数日の出来事が走馬灯のように次々と蘇って来た。
突然の搬送。
慌ただしい帰省。
そして、ようやく迎えた退院の日――。
◆再会の病室へ
病院の正面玄関に入ると、午前の外来が始まっている時間だった。
患者や家族が行き交い、ロビーはどこか落ち着かない慌ただしい雰囲気に包まれていた。
二人はセキュリティカードをかざしてエレベーターに乗り、病棟の階へ向かった。
扉が静かに開くと、白く清潔な廊下がまっすぐ奥へと伸びている。
消毒液の匂いがほのかに漂い、ナースステーションの前では看護師たちが、忙しそうに書類や器具を整えている。
修一が部屋番号を確かめると、奈葉は小さくうなずいた。
病室の扉をノックして開けると、窓から穏やかな光が差し込み、白い毛布に包まれたベッドを静かに照らしていた。
母は二人の姿を見ると、ふっと肩の力が抜けたように表情を和らげ、ゆっくりと身を起こして微笑んだ。
「急にこんなことになって、二人には迷惑かけてしまったねぇ」
奈葉はすぐに首を振った。
「迷惑だなんてさ、お母さんが病気になったんだから当たり前でしょや」
母は少し気まずそうな表情で奈葉を見た。
「奈葉が東京から帰って来てくれたのは嬉しいけどさ、仕事は休んでも大丈夫だったのかい?」
奈葉は笑いながら答えた。
「会社には、今週いっぱい休むって伝えてあるから大丈夫だよ。
だからさ、私の仕事のことなんて気にしないで、お母さんは自分のことだけ心配してればいいんだよ」
それを聞いた修一も、うなずいた。
「そうだな、奈葉の言う通りだわ。
母さんは、もっと自分のこと考えなきゃダメなんだって」
母は二人の顔を見比べ、ほっとしたように息をついた。
「うん、ありがとうね。思ってたより早く退院できて、ほっとしたわぁ」
◆退院手続き
10時前、病室のドアをノックする音がして、主治医と看護師が入って来た。
主治医は、退院後の生活で気をつけることや、今後の通院について丁寧に説明する。
奈葉は聞き漏らさないよう、隣で小さなメモ帳に書き留めていた。
説明が終わると、看護師が点滴の針を抜いた。
腕に貼られた小さな絆創膏が、数日間に渡る入院生活の名残のように見えた。
母はゆっくりとベッドから起き上がり、奈葉が用意してくれた新しい服に袖を通す。
軽く化粧をし、手鏡に映る自分の顔を見て、小さく微笑んだ。
パジャマ姿からきちんと身支度を整えると、ようやく日常が戻って来る実感が湧いた。
荷物をまとめる音が、静かな病室にそっと響いた。
母は何度も振り返り、忘れ物がないか確かめている。
ナースステーションの前で、三人は足を止めた。
「お世話になりました」
母が深々と頭を下げると、看護師たちは立ち上がり、温かな笑顔で送り出してくれた。
エレベーターで1階に降り、入退院手続きのカウンターへ向かう。
会計を終え、書類にサインをすると、短くも緊張感のあった入院生活は幕を下ろした。
病院の玄関の自動ドアが開くと、外の空気が一気に流れ込んで来た。
6月の十勝、ひんやりとした空気が肌を伝わる。
母が肩をすくめると、修一がそれに気づいて声をかけた。
「寒くないか? 車すぐそこだからさ」
駐車場を三人で歩いて行く。
遠くから鳥の声が聞こえ、病院の建物の影が長く伸びている。
母は歩きながら、何度も空を見上げていた。
それは、搬送された夜の空と、どこか見比べているようだった。
車に乗り込むと、修一がエンジンをかけ、ゆっくりと病院を離れた。
バックミラーには、白い建物がだんだん小さく映って行く。
奈葉は、流れゆく景色を見ながら、胸の奥に溜まっていた緊張が少しずつ解けていくのを感じていた。
◆思いがけない寄り道

車がJRのガードをくぐると、車窓にはビルやホテルが立ち並び始めた。
すると、母がふと思いついたように言った。
「ちょっと『ふじもり』(※)に寄って、お昼でも食べて帰ろうかい?」
思いがけない提案に、二人は思わず驚いた。
「退院したばっかで、『ふじもり』はないべや」
ハンドルを握りながら、修一がつぶやくように言う。
すると後部座席から、母の穏やかな声が返って来た。
「父さんが生きてたころはさ、帯広に出たら、みんなで『ふじもり』でよく食べたよねぇ。
せっかく奈葉も帰って来て、三人揃ったんだもの。
家帰ったところで、美味しいもん作ってあげられるわけでもないしさ」
奈葉は振り返り、諭すようにいった。
「私はさ、別に美味しいもんより、お母さんが元気でいてくれたらそれでいいんだよ」
母は少し照れたように笑った。
「ありがとうね。
じゃあ、私の快気祝いってことで、行きましょうかい。
ほら、そこの駐車場に入れてちょうだいな」
修一は、苦笑いを浮かべつつ、車のウィンカーを出した。
◆「ふじもり」の昼食
「ふじもり」のメニューは豊富だ。
和洋中が揃い、もちろん帯広名物の豚丼やインデアンカレーもある。
子どものころ、ショーウィンドウに並んだ色とりどりの食品サンプルを眺めて、胸を躍らせた記憶が奈葉の頭をよぎった。
「奈葉は、何にするかい?」
母の声は、幼い頃に聞いたままの響きだった。
奈葉は、ショーウィンドウを眺めながら少し考えた。
「……ええと、ナポリタンにしよっかな」
修一が、その言葉を聞いて懐かしそうに笑う。
「じゃあ俺は、シーフードドリアにすっかな」
母は黙ってうなずき、そのまま店に入った。

平日の昼前だったので、1階のテーブル席にはまだ余裕があった。
テーブルのタッチパネルを見るなり、母は迷うことなく「ふじもり特選弁当」と「数量3」をタップした。
「えっ?」
二人は顔を見合わせて、驚いた表情を浮かべた。
母は少し得意げな顔で言った。
「私の快気祝いに、ナポリタンやドリアじゃ物足りないべさ。
ここは、ぱぁっと豪快に行くべや」
奈葉は思わず笑みをこぼした。
子どもの頃に大好きだったナポリタンも恋しかったが、今は母の元気な姿を見ることの方がずっと嬉しかった。

ウェイトレスが水と箸、そしてメロンソーダをテーブルに置いた。
ガラスのコップの中で、氷がカランと響くメロンソーダ。
それは昔から変わらない「ふじもり」のサービスだった。
やがて運ばれてきた「ふじもり特選弁当」には、刺身や天ぷら、ステーキ、茶わん蒸しなどが美しく並んでいた。
値段が一番高いだけあって、ボリュームも十分だ。
奈葉と修一は、思わず顔をほころばせた。
◆小さな快気祝い
母は、箸をゆっくりと動かしながら、一口ずつ丁寧に口へ運ぶ。
ご飯を少しだけ残したものの、ほとんどきれいに食べ終えた。
その光景は、奈葉にとって何よりもうれしい贈り物のように思えた。
3人は会計を済ませ、店を出て駐車場へ向かって歩き出した。
母はお腹をさすりながら、満足そうに笑った。
「いやぁ、お腹いっぱいだわ、ほんと」
その声に、修一が苦笑する。
「母さん、よく食べれたねぇ」
「病院食ってさ、私の体のこと考えたメニューなんだろうけど、もうちょい味が濃かったらよかったわ」
すると修一は、少し真面目な声で言った。
「母さん、濃い味だと血圧上がるらしいんだわ。
心臓の病気なんだから、気ぃつけないとダメだべさ」
母は肩をすくめて笑う。
「そんなこと言われても、もう胃袋ん中に入っちゃったわ」
三人の間にふっと自然な笑いがこぼれた。
まるで小さな快気祝いのひとときのようだった。
◆家に帰ろう
修一が車のキーを取り出す。
「さて、帰るべか」
母はゆっくりとうなずいた。
「そうだねぇ。家さ帰ろうかい」
その何気ない一言に、奈葉の胸をほんのりと温めた。
――家に帰る。
それだけのことが、こんなにありがたいものだったのかと、今さらのように思う。
車は、駐車場からゆっくりと西二条通りへ出た。
初夏の風が、窓の外を静かに通り過ぎて行った。
つい数日前まで、母が病院のベッドに寝ていたことが、嘘のように思えた。
奈葉は、胸の奥に小さな安堵を抱えながら、静かに前を見つめていた。
――母が退院した。
それだけで、今日はもう十分だった。
[つづく]
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